『死後の世界・不思議現象・精神世界の講演会と宗教の目的』
精神世界の講演会、セミナーというものは、その聴講目的によっては、がっかりもし、充実もするものです。講演会で新たな知識を得ようとしても無理なことで、
興味があるから書籍などで情報を事前に得、信頼する者の講演会だから申込むものですから。
でも、まったく無駄でもなく、目的を同じくする者どうしが一堂に集まり、情報交換も可能だし、また、書籍の著者、団体の主宰者に身近に接し、その人柄を感じ、
その方の主張、思いの強さ、本意を自分の五感で知ることも可能です。
私は、どの講演会・セミナーに於いても誰とも会話することなく、誰からも声をかけられることもなく、 ただ自分の目的としての、死後の世界の確認・証明、死者との再会方法だけを追求しておりました。
@船井幸雄 オープンワールド
故船井幸雄氏についてご存じですか?
経営コンサルタントである「船井総合研究所」の元経営者であり、精神世界の巨人的な存在です。
私も、この戦略コンサルタントに就職することを憧れていた時期もありました。
船井氏が開催していた、「船井幸雄 オープンワールド」というセミナーを、第3回(2004年)、第4回(2005年)と2年連続で聴講し、
今まで読んできた種々の精神世界の本の著者に接し、不思議な現象の信憑性を確認しようとしました。
会場は新高輪プリンスホテルでしたが、1万人強の参加者で溢れ、昼食をとることもできないくらい盛況でした。
気になる書籍の著者の方々の講演がめじろ押しで、講演時間が重なっているものは、どちらに出ようかと悩んだくらいです。
しかし、いずれの講演も、そもそも事前にその内容は知っていたので、新しいことを知る場ではなく、「不思議現象の存在の肯定者の広まり」を実感し、
その集団の中にいる事で、故船井氏の提唱していた「百匹目の猿現象」の一匹として、
充実感と安心感を覚えました。
感情や行動は、情報として空間を伝搬していくものであるのかもしれません。
A江原啓之氏
江原啓之氏のセミナーとしては、江原氏が、まだ、それほどマスコミに出る前に北沢八幡宮で開催されていたもの、有名になってからの各地での講演会を聴講しましたが、これもやはり、
江原氏の伝えたいことは、書籍で十分知識を得ていたので、初心者向けと言ったら語弊があるかもしれませんが、物足りなく感じました。
江原氏の個人カウンセリングを受けた後は、なおさらです。
コンサートは、音楽会とトークショーとしての楽しさもあり、終了後には、様々な方々の笑顔があり、霊界など関係なく、ただ、江原氏に共感し、楽しんでいる。それだけで十分満足している。
そんな感じでした。
できる事ならば、公開霊視のデモンストレーションがあればよかったのだけれども、目的が違ったようです。
B死人に口あり
千葉県佐倉市に、「国立歴史民俗博物館」と言う施設があり、いつもの当てのないドライブ中に、ふと、掲示されている講演会の案内「死人に口あり」が目に留まり、 後日、その講演会(2001年8月)を聴講しました。
内容は、某大学の宗教学・民族学の教授(名前も、著書も覚えております)が、自身の研究成果を話されておりました。
その方の職業上の立場もあり、微妙な説明ではありましたが、タイトルの通り、「死者は思いを、遺した者に伝える。交信を望んでいる死者も、
死者と話したことが有る者も実態はかなりいる」と言うもので、イタコ(霊能者)の調査研究により、「あの世は存在し、
死者も生きている時と同様に連絡してくる」それを実際に経験したとのことでした。
大学教授であり、講演内容も個人の思想的はものは一切感じず、「学問」としての死後探究に初めて触れました。霊能者ではない学者の研究結果の説明は、客観的な説得力を持っていました。
C月例供養祭
妻の供養をしていただき、霊視に涙した八王子の某寺院での月例供養祭。これ自体は、故人の方々の名前、命日を読み上げ、供養すると言うものですが、
その後の住職先生の話が聞きたくて、会報が欲しくて、毎月訪れていまいした。
人の生き方としてのお話が中心ですが、ご縁を持った方々のご供養の過程で起きた様々な現象についても話があり、「死後の世界」、「死者は生きている」を感じることはできました。
通常のスピリチュアル講座とは異なり、本堂に於いても、ゆっくりと時が流れていたように感じます。
ある日の供養祭で、「仏様のお水がコップに半分しかなく、お供え物も無くなっていたので、若い僧侶に言ったら、誰もとっておらず、″いっぱいにしました”と言われた。 不思議なことがあるもんだ」というお話があり、その前月、自分に起きた現象(奇妙な出来事に書いた墓参りのこと)とのシンクロに答えを得た思いでした。
私に子供が生まれ、ゼロ歳の時連れて行ったのを最後に、この寺院には行っていませんが、皆様のやさしさに触れ、心穏やかになれたことに感謝しております。
現在、御住職は他界されているようです。
D宗教とは
宗教については、一般的な日本人として、ただなんとなく手を合わせる程度でした。神社や、キリスト協会は、あの凛とした空気が大好きでよく癒やされに行きます。
いくつかの宗教についても、「きっと真理が隠れている」という思いから教義をかじり、教えを純粋に試してみました。
宗教についての成り立ち、教義を勉強し、一時期は、宗教オタクだと見られていました。
某団体の熱心な会員である友人から勧められた「○ ○○○○ 第4巻」を一生懸命読み、お経を1日30分程度ですが無心で唱え、何かを知りたい一心から会の施設に通い、入会を申し込みました。
その後、7名の幹部との入会面談時に、未熟な私ですが書籍の疑問点、矛盾点を質問し、現世・来世に対する私の思いと、
「世界のためには祈らない。妻のためだけに生きてゆく」と涙ながらに伝えると、私の思いに共に涙してくれる方もいましたが、入会は断られました。
妻が信頼し「神様に会って来た」とまで言っていた、○○教の開祖が降臨しているといわれる者が主宰する○○○。
月例の勉強会に参加しましたが、その会の光景を眺めているだけで、無性に悲しくなり、途中で帰ってしまいました。なぜ、一人の人間をそこまで信頼し、奉仕できるのか。
もしかしたら、霊が憑依していたかもしれないけれど、神様なの?
宗教で私が知り会った方達は、とても純粋で、とても熱心です。入会を断られた会の幹部たちも、無償で私に付き合い、純粋に他者も救いたくて活動していました。心優しい方たちが多く、
その方たちには感謝しております。
しかし、何を、どこまで理解しているのか。その根拠は? そして、なぜ、そこまで排他的で、異質なものを認めようとしないのか?教義の意味も元は違ったのではないの?
宗教は、生きるための方便として教義があり、死者などについてはあまり関心がなく、よりよく生きて行くために信仰が有るようです。
私が知りたかった死後の世界や、生まれ変わりについて回答は得られず、ましてや、現世で死者との再会を願うことなどは許されないことの様です。
自分が知りたいことだけを求める私の姿勢は、宗教活動にはそぐわないのかもしれません。
多分、宗教に帰依するとは、教義、教祖、指導者の教えを全面的に肯定することであると思います。そこまで信仰できたら良いのだけれど、私にはできませんでした。
ドイツの哲学者ニーチェの言葉、「神は死んだ」を思い出します。