『死後の世界の真実を知り、辿り着いた生きる目的』

《1. 「生きる目的」未記載だった理由》

 “死後の世界”の結論で、当初「生きる目的」が未記載となっていた理由は、下記の3点です。

 1.私の(だけの)目的であり、人にはそれぞれ違った生きる目的がある。
 2.サイト上の言葉では、趣旨が正しく伝わらないかもしれない。
 3.今現在の結論である。

 ご質問を頂いた皆様へは、未記載の理由を丁重にご説明し、それでも記載しませんでしたが、 サイト開設の趣旨に鑑み、「虚無と絶望から、心穏やかに生きて行けるようになった者の得た結論」としてお伝えすることに致します。

 サイト開設の趣旨は、「愛する人を亡くし生きる目的を失ったあなたが、もう一度、愛する人の存在を実感し、 心穏やかに生きて行けるように、私の体験と知った事実を公開する」

 この章の記載について、どうぞ趣旨をご理解いただけますようお願いいたします。

《2. 私の生きる目的(結論》

 平成16年4月18日現在、私の生きる目的は、『幸せであることに気づき、私が私であること』
 幸せになることではなく、“気づく”こと。

 偉くなることでも、社会的に成功することでもなく、スピリチュアリストの言っている“学び”でも“成長”でもない。
 この、ありふれた陳腐な結論が、死んでしまった妻にもう一度会いたくて、会いたくて、死後の世界の真実を探し求めていた私がやっと気付いた、 言い訳でも、合理化でも、現実逃避でもない結論です。

 喜び、悲しみ、苦しみ、安らぎ、喜怒哀楽の感情は幸せへの指向の過程であり、心の振動のどれもが幸せの証であることに気づき、生まれてきたことに感謝し、 全ての現実を受け入れることができました。
 愛する妻の死に対する苦しみ、悲しみの深層の本質は、大切な人に巡り逢えた喜びと、また近い未来に再会することが待ち遠しくて我慢できない心の葛藤であり、期待です。
 愛する妻と巡り逢い、共に生き、喜びを倍増し、悲しみを癒しあう。その事実は永遠に変化することは無く、幸せは消えることは有りません。

《3. 人生の目的に気づくまで》

 私は、今まで、幸せに気づくことを拒絶していたのかもしれません。亡き妻の為と偽って、女性との接触は避けてきました。これは、亡き妻に対する私の執着であったように思います。
 “妻思い”では無かったのでしょう。
 “友人の深夜の訪問”で言われた、「なぜ分かってくれないんだ」は、亡き妻の私に対する悲しみの思いであったのだと思います。 その言葉の意味を理解するのに更に7年を要してしまいました。

 時間の止まっていた私の苦悩は、亡き妻が心配であったこと。
 妻は幸せだったのか? 自殺した者が幸せであるはずがない。何をしたら妻は救われるのか?
 いかなる時も妻の安らぎだけを願い、この一点に苦悩していました。

 そんな状況においても、私の周りでは勝手に時は進み、環境は変化し、一人の女性が自然に心の中に入り込み、子供を授かり、再婚し(逆ですね)、そして、最愛の我が子の誕生を迎えました。
 その瞬間、
 「輝きだした小さく無防備な命から、生命の儚さと、無条件の安らぎを与えられ、すべての現実を認め、亡き妻に感謝し、生きて行かなければならない責任を知らされ、 生かされていることを喜び、初めて自分自身を許しました」

 小さな命は、私の腕の中で、すべてを私に委ね、安らぎの波動が溶け込みあい、増幅された幸せが発散する。
 やっと気付きました。『人の想いは全てを包み込み、私はずっと幸せであった』と。
 私が妻を愛していた現実が存在し、妻が私を愛していた現実が存在します。“死”をもってしてもその事実は消せない。
 私が幸せであれば、妻はそれを喜ぶに違いなく、妻が安らかでなければ、私は苦しみから解放されることは無い。

そして、生きる目的を知りました。
 私が幸せになれば、愛する者も幸せになる。私が苦しめば、苦しみは伝搬する。
 幸せな人生を送り、そして死んでゆくことが、唯一絶対の目的であると。

 子供を必要としない幸せも、孤高・博愛の幸せも、人それぞれに、幸せの形は有ります。
 子供を授かったから幸せなのではありません。子供に教えられたのです。愚かで自分勝手な私は、そうでないと気づけなかったのです。

《4. 私の幸せ》

 宇宙で一番愛おしい我が子と出会えました。
 「子供は、3歳までに親に一生分の恩を返す。」と言う言葉が有りますが、我が子には何も期待しません。何も要求することは有りません。ただ、生まれて来てくれたことに感謝しています。
 息子の将来への願いは、穏やかな人生であれば良いとだけ願っています。

 子供に何かを期待し、私の価値観を押し付けるのなら、それは、子供の為ではなく自分の為なのでしょう。子供に習い事をさせ、才能を開花させることができたとしても、 それがその子の幸せかどうかは分かりません。
 すべての子供には無限の可能性があり、すべての人間の生まれてきた目的はそれぞれにあり、それは本人にしかわからないこと。
 私は、“一人の人間の人生”を応援するだけです。

 勿論、無条件に幸せを得られるものではありませんし、何をしたら幸せを得られるのか、幸せとは何なのかの説明になっていません。
 何かに憧れ、求め続けること自体が幸せの過程ではないでしょうか。
 目標が達成されることは一つの結果でしかなく、目標が達成されない人生は不幸でしょうか? 
 偽りの目標を持てば、それ自体が、苦しみの始まりです。

 以前は、物質的な豊かさを幸せの重要な要件だと思い込んでいました。それは、誰しもが求め、憧れる事ですが、幸せの本質ではありませんでした。
 大切な人を喪い、全てが虚しく、金も、地位も、名誉も、まったく価値のないものとなりました。

 『私が私らしく、自己の心に正直に生きてゆくこと。』
 『私が幸せなら、私の愛する人が幸せになる。愛する人が幸せなら、私は幸せである。』

 ただ、愛する子どもの笑顔が有ればいい。その子の全てを受け入れ、認めます。

《5. 幸せとは》

 幸せになることは、自己中心的であり、他者の評価を必要としませんが、誰と何処で生きていようが、その環境と調和していることは必要条件です。
 時代、環境が変われば、価値観も、社会規則も、正義も変わるもの。一夫多妻で子孫を残すことが価値ある事であったり、自分の信じる神に祈りを捧げ、 信仰に生きることが大切な事であったり、生きて行くのに必要な食料のみを求め、心豊かに暮らすことが自然な事であったり。
 しかし、いつの時代にも、どの環境においても、幸せの条件として認められないことは、自身の欲の為に他者の苦痛、犠牲の伴うもの。 殺人(他者、自己)、暴力(肉体的、精神的)等は、人の魂の本質として到底認められません。

 幸せの定義は、人それぞれに固有ものですが、“幸せになりたい”状況は幸せではなく、いかなる状況でも満足しない人間の心から起因し、欲は尽きることは有りません。
 無欲で、喜び安らぎの得られたときが“幸せ”であるように思います。幸せに気付いた者は、人生での囚われが少なく、執着の少ない者は幸せです。

《6. 自己の成長》

 喪失の絶望は人生についての意味を無くし、「死後の世界の確認」だけが唯一の目的であったため、自己の成長など考えることも有りませんでした。
 そして、死後の世界の存在を確認し、生きる目的を知り、人生が変わりました。
 人生の目的を知ったことで、その瞬間から、生きがいが創造され、今の幸せが得られています。幸せを実感できることが、人としての成長なのかもしれません。

 あなたが喪失の絶望から、既に現実を意識し、心穏やかに生きているのであれば、このサイトは無用なものです。
 既に人生の目的を見つけ、自己の成長を望んでいるのであれば、死後の世界、精神世界については、もう気付いているのか、 若しくは、そんなこと、知る必要もないどうでもいいことなのかもしれません。

《7. 生きがいの創造》

 生きがいや、人生論については、飯田史彦氏(著作当時、福島大学経営学部助教授)の「生きがい論」シリーズとして、 とても有名なベストセラー本が有ります。“生まれ変わり”を題材として、経営学から考えた、『生きがいの創造』をテーマとした人生論です。
 臨死体験や、退行催眠、前世記憶等、多くの事例が平易な文体で書かれており、優しさに溢れたシリーズです。 飯田氏の著書は殆ど読み、ホームページを幾度となく訪問し、死後の世界の存在への期待と、心の安定とを得られました。
 とても素晴らしいシリーズで、既に現実社会に目を向けようとしている者が、生きがいを得るきっかっけを与える内容です。
 但し、そのシリーズは経営学としての体裁を保ち、人生論として、苦しみ、悲しみからの立ち直りが論旨であり、 結論であった「死後の世界、生まれ変わりを認めれば、人生は豊かになる。」的な思考は受け入れることが出来ませんでした。

 人生について目標を持ち、変化を望む者にとって私のサイトが無用であるように、生きて行くことを諦めた者にとっては、自己啓発や、生きがいを論じることなど無用なことです。
 人生おいて必要なことは、その人の状況によって違うもので、各人にとって、今、必要な事に気づくことで、初めて生きがいが創造される。
 人生の価値とは、何かを達成することではなく、自分にとって必要なことを知ることではないでしょうか。

 自己の成長は、人生の目的では有りません。結果です。

《8. 神は死んだ、しかし》

 私の好きな言葉に、ドイツの哲学者ニーチェの「神は死んだ」が有ります。
 心惹かれる偉人の一人に、古代ギリシャの哲学者アリストテレスがいます。
 アリストテレスの師であるプラトンの説いたイデア論にも興味を持っており、彼の著書「国家」には、何故か共感を覚えました。 私の「退行催眠セッションの記録」においても、プラトンの知人としてのセッションもありました。(真贋は不明です)
 私は、超の付くほどの「現実主義者」、「合理主義者」であり、今でも変わることなく、理にかなわないことを受け入れることができません。

 こんな私が、なぜ死後の世界を100%肯定しているのか。
 それが、現実に体験した結論だからです。
 なぜ、「幸せに気づく」などと、精神的、思想的な表現をするのか。
 それが、大切な人を喪い、人生を諦め、時は止まり、絶望と孤独の中に閉じ込められていた者が、真実を知り、辿り着いた生きる目的だからです。

 私の幸せが、皆様にも伝搬し、愛する人を亡くしたあなたが、苦しみから解放されるよう願っております。

「自分の幸せに気付けることが、人生の価値」